2012年8月21日火曜日

「科学」は「中立である」はずはない

科学」は「中立である」わけではない。あるはずがない。
科学は、「客観的」というよりは「絶対性」の追求だから。
ということを端的に分かりやすく説明されている記事があったので紹介します。

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中立性と科学者 ~・あなたは原発派なの?脱原発派なの? 社会的存在としての人間・~現状把握研究所http://kakka916.blog110.fc2.com/blog-entry-21.html


みなさん、「客観的」という言葉は、
「絶対的」とは意味が
全く違うということをご存じでしたか?

「客観」の対語は「主観」であるから、
「主観」は自分の立場から見た考えであるなら、
「客観」は相手の立場に立ったらと推し量った上での考え、
なのである。

「客観的」とは、おそらく相手が思っているであろう見方なのである。

だから、科学は客観性に忠実というよりは、
「絶対性」の追求なのである。

絶対の性質を帯びているように思われるものは存在するが、
絶対そのものは人間には知るよしもない。

だから、科学者は多かれ少なかれ「絶対」を騙らざるを得ない面があり、
それを「客観的」という言葉にすり替えてしまったのだ。

「絶対」と「科学」の間にある溝に、
科学者の人生観・社会間・政治的信条が潜り込んでいるのだ。

裁判もそうである。
だから、
裁判も真理の探究というよりは、
社会的なけじめでしかあり得ない。

事実の追求は基本だが、事実とは社会的なものだ。

社会で運用されている法律を司っているのは神ではない。

人間なのだ。

起訴・弁護・判決は、
神の行為ではなく、
人間の行為である。

人間同士が約束した決まりの
確認作業である。


冤罪とは真理を誤ったともいえるが、
社会の現れといった言い方の方がなじむ。



新聞やテレビももちろん同様である。

ジャーナリズムとは、

中立を騙って
いわゆる「客観的で中立的」な報道をすることではなく、
己の良心には従うが、
結果として偏向が生じる姿勢を是認することである。

金や、外国などを淵源とする権力に擦り寄るごとに、
報道内容は恣意的となっていく。

メディアは、
フィルタリング機能やサブリミナル効果
のエキスパートである。




神の法とは、
万物変転の原理であり、
人はその解釈をできるにすぎない。


科学とはそもそも神を探求する宗教的行為であった。
今では人によっては神を真理と呼び、
神の代わりに政治活動や市民運動を探求しながら
「科学」を、科学者は営む。

三池晴与

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