| 近代以来の科学の認識手法や、証明・実証などの方法論は、その体系の中では整合していると思います。単純な系に置きかえて近似値を求めたり、インビトローでの特殊な条件の下での実験などから導き出される事実は、現象のほんの一面です。だから、それには適用限界があり、優秀な科学者ほど科学というものが永遠に不完全である(永遠に変化し続ける)ということを知っているという事ではないでしょうか。 |
近代科学を切開する
2012年10月16日火曜日
事実の体系とは永遠に進化しつづけるもの
2012年10月14日日曜日
「事実」の定義
僕は「事実」というものを、「直接、間接的に検証された事柄」というイメージで認識していた時期がありました。
が、その「事実」のもとになる「検証」の中身を(例えば、ある実験をイメージして)考えてみると、「検証」(実験)の前提となる設定条件の限定性、実験者の指向性(問題意識)等、案外曖昧な要素を前提にして成立しているものであることに気付きました。
が、その「事実」のもとになる「検証」の中身を(例えば、ある実験をイメージして)考えてみると、「検証」(実験)の前提となる設定条件の限定性、実験者の指向性(問題意識)等、案外曖昧な要素を前提にして成立しているものであることに気付きました。
2012年10月12日金曜日
怪しげな「検証」と、危なげな「定説」
| >適応度にしても、進化速度にしても、分子時計にしても、全て便利で使いやすいように、現状をざっくりと把握しやすいように仮定を立てて数値化した、と考えられます。もともと、ざっくり把握するために「仮定」を置いているということを忘れて、公式のごとく使用するのは本末転倒だと思います。(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=1988) 「そのように定義して計算すればそうなる」というだけだったり、「ある前提条件の範囲内で実証されたこと」を拡大適用するのは禁物でしょう。 |
2012年9月12日水曜日
現在の生物学には何が欠けているのか
以下は、京都大学化学研究所のHP「新しいゲノム情報科学をめざして」からの引用です。ゲノム情報科学の内容の是非はおいておいて、悲しいことに物理学に比べると、生物学は信仰の領域と見られているようです。
「現在の生物学には何が欠けているのでしょうか。それを考えるために、物理学と比較してみましょう。現在の素粒子物理学には図に示したように、標準理論とよばれる理論があります。その大きなポイントは、物質の一番下の構成要素である素粒子には、物質の構成粒子と力の伝達粒子の二種類がある点です。つまり、物質をつくるもととなる粒子があるだけでなく、それをつなぎ合わせる力がなければ、自然界は存在しません。別の言い方をすると相互作用が重要なわけです。」
「現在の生物学には何が欠けているのでしょうか。それを考えるために、物理学と比較してみましょう。現在の素粒子物理学には図に示したように、標準理論とよばれる理論があります。その大きなポイントは、物質の一番下の構成要素である素粒子には、物質の構成粒子と力の伝達粒子の二種類がある点です。つまり、物質をつくるもととなる粒子があるだけでなく、それをつなぎ合わせる力がなければ、自然界は存在しません。別の言い方をすると相互作用が重要なわけです。」
2012年9月10日月曜日
現状の「科学的事実」と言われているものの怪しさ
学生時代、研究室で実験系を組むときに、いかにすれば望み通り(仮説通り)の実験結果が得られるかに研究室のメンバー全員が(教授の指導を受けながら)知恵を絞って実験を繰り返している姿を見てきました。恣意的にほとんどのパラメーターを固定し、あるパラメーターのみを変動させる。極端に言うと、「自然」をたたいたりひっぱったりつねったりして望み通りの結果を吐き出させる、といった感じです。
プロの研究者もどうやら似たようなことをしているらしいことを知り、一学者が勝手に「定義」したものを信じるという事にすっかり逡巡するようになってしまいました。
また、現在「定説」といわれている説が、もしかして恣意的な大きな前提の上に成り立っているのではないかと、研究室を離れて外から見ると、あらためて思います。
プロの研究者もどうやら似たようなことをしているらしいことを知り、一学者が勝手に「定義」したものを信じるという事にすっかり逡巡するようになってしまいました。
また、現在「定説」といわれている説が、もしかして恣意的な大きな前提の上に成り立っているのではないかと、研究室を離れて外から見ると、あらためて思います。
2012年9月8日土曜日
適正な評価機関がないのが問題では?
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2012年9月6日木曜日
事実と共認について
イヌイットの「白」、日本人の「米」、アラブでの「駱駝」等、生活上の重要度で表現の種類も違ってくる事、要するにこれは文化でしょう。文化=事実という捉え方そのものに無理があります。
誰も事実として認識しなくても(誰も地球が丸いと知らなくても)事実は事実としてあるのです。そしてそれが文化や宗教・個人差によって消されこそすれ生み出されたものではないからこそ、「万人の」といえるのでしょう。音痴な人が絶対音感を認識できないように、自分個人が認識したものしか認められないという見方こそ、固定観念の始まりではないでしょうか。
中野恵
誰も事実として認識しなくても(誰も地球が丸いと知らなくても)事実は事実としてあるのです。そしてそれが文化や宗教・個人差によって消されこそすれ生み出されたものではないからこそ、「万人の」といえるのでしょう。音痴な人が絶対音感を認識できないように、自分個人が認識したものしか認められないという見方こそ、固定観念の始まりではないでしょうか。
中野恵
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