僕は「事実」というものを、「直接、間接的に検証された事柄」というイメージで認識していた時期がありました。
が、その「事実」のもとになる「検証」の中身を(例えば、ある実験をイメージして)考えてみると、「検証」(実験)の前提となる設定条件の限定性、実験者の指向性(問題意識)等、案外曖昧な要素を前提にして成立しているものであることに気付きました。
「検証」がその程度のものであれば、「事実」(狭義)=「人間の五感で観察されうるものごとの全て」、を論理整合させた仮説を「事実」(広義)と呼んでもおかしくない、むしろ「事実」とはそういうものではないか。
仮説を「事実」と呼ぶことに抵抗があるかもしれませんが、それは我々が「事実」という言葉を固定化した、絶対的なイメージで捉える傾向があるからでしょう。実際はより精度の高い仮説が存在するだけなのに。
より精度の高い仮説は、「事実」として認識すべきだと思います。そう定義しても、おかしな「事実」(=仮説)には必ず突っ込みが入り精錬されるでしょうから、誤った認識が定着する心配はありません。それは、おかしな(狭義の)「事実」(=例えば実験)に「その前提はなんぞや」と突っ込みが入るのと同じことです。
竹村誠一
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