2012年9月4日火曜日

事実認識の限界について

>それとも、あくまで、「事実」認識という手段には限界が無いということなのでしょうか。

>限界はない、と思います。(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=1350

白ワインって、どう見ても白ではなくてどちらかと言うと黄色に近い色ですよね。しかしそれがなぜ白ワインかというと、昔フランス語には白、赤、黒の3色しか色を認識する言葉がなかったそうです。そのためどんな色もその3色の中の最も近い色にふりわけられ、現在認識されている黄色という色は、「白」だと思われていたそうです。しかし実際、「事実」としてその3色では言い表せない色はあったわけで、そのような事実認識→事実の共認から、それ以外の色があるという認識が広がり、新しい色を表現する言葉も生まれ、今ではちゃんと他の色(緑や青やオレンジなんか)の認識がありますよね。(余談ですが、私は今、36色クレヨンセットを持っています)。

社会変革の手段としての事実認識は、必要最低限の基礎です。
また、ある事柄(例えば『世の中にあるものは3色だけでは語れない』こととか、『実現論』など)が、「事実」であるということは、「事実」以外のこと(『世界は白、赤、黒で成っているという認識』とか、『近代思想の価値観念』など)のみしか認識していなかった人々がいるわけです。そのような人々が事実を事実として受け入れ、そのような待ちわびていた「事実」を共認するのは当然のことだと思います。事実認識に限界がなかったことは、例えば今、フランス人の誰もがいろんな色を認識しているということで示しているのではないでしょうか。

事実というのは「創り出される」ものではないと思います。人類によって「創られる」事実なんていうものはあるのでしょうか。私は、事実は「突き詰めて行く」ものであると考えます。人によって創られ、万人によって「共認」されないものであるならば、それは「事実」と呼んではいけない気がします。


田中道世 

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